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萩原宏先生学校葬・追悼式 追悼文集

学校葬・追悼式

追悼文

京都情報大学院大学 初代学長 萩原 宏先生のご逝去に際し,学校葬・追悼式を挙行させていただきます。京都情報大学院大学ならびに京都コンピュータ学院,KCGグループを代表し,謹んで哀悼の意を表します。

日本の情報工学研究のパイオニアである萩原先生は,京都情報大学院大学が2004年4月,日本最初にして唯一のIT専門職大学院として開学した折,初代学長に就任されました。本学において,IT分野の高度専門職業人の育成に向け,ご尽力くださいました。2008年に学長を退任された後も名誉学長として,本学の運営を支え続けてくださいました。私ども本学関係者は,大きな柱を失ってしまいましたことを深く悲しんでおります。しかしながら,悲しみに暮れているばかりではいけません。萩原先生の尊いお教えを心に刻んで,教育機関としての社会的使命を果たし,社会貢献を継続していくため,さらなる努力を重ねていかなければならないと,一同誓いを新たにしているところでございます。

萩原宏先生は,1926年6月27日,石川県金沢市にお生まれになりました。1950年に京都大学工学部 電気工学科を卒業された後,日本放送協会(NHK)にお入りになり,技術研究所において電子回路,情報理論,通信方式などの研究に従事されました。1957年,京都大学工学部にお移りになり,当時は社会であまり知られていなかった電子計算機(コンピュータ)の分野の開拓者の筆頭となられたのです。1958年には,京都大学の第1号機となる電子計算機(KDC-1)の開発を手掛けられました。トランジスタ,ダイオードなど半導体素子を使用して安定確実な動作を目標に開発を進め,トランジスタ回路の改良をはじめ,ハードウェアの信頼性向上に多大な貢献をされました。また,基本プログラムの開発にも従事されました。そして,1961年からは,マイクロプログラム制御,非同期方式の計算機の開発に着手されたのです。それが,日本のコンピュータの歴史を変えた「KT-パイロット」です。「KT-パイロット」は,我が国最初の本格的なマイクロプログラミング方式です。マイクロプログラムを可変にし,機械命令を目的に応じて変更可能にすること,回路の非同期動作による高速化,さらに磁性薄膜記憶の採用などにより,高速計算機を実現したのです。この成果を具現化したのが,「TOSBAC-3400」です。本学のKCG資料館(京都駅前校本館1階)に保存展示している歴史的にも偉大な名機です。

「TOSBAC-3400」は,一般社団法人情報処理学会より2009年,「情報処理技術遺産」として全国第一号認定を受けています。

萩原先生は,「TOSBAC-3400」の開発を足掛かりに,アセンブラ,FORTRAN,ALGOL 60のコンパイラの研究を進められるなど,コンピュータ処理の高速化に力を注がれ,第一人者として日本の大型計算機センター網の発展に尽くされました。同時に,京都大学大型計算機センターの設立や情報工学科の創設にも尽力され,現在の京都大学大学院情報学研究科の礎を築かれました。また,京都大学では名誉教授にも就任されました。このほか,ご自身が設立に携われた情報処理学会の理事,副会長,会長を歴任され,さらには日本学術会議第16期会員に任命され,情報工学研究連絡委員会の委員長を務められました。学者・研究者としての著書も多数に及び,共著,分担執筆を含め22編,学会誌等の発表論文は75編にのぼります。先生は,日本の情報関連分野を常にリードしてこられたのです。

KCGグループにお越しいただいたのは,京都大学を定年退官され,龍谷大学理工学部の教授をお務めになった後のことでした。1995年に京都コンピュータ学院情報工学研究所を設立した際には,所長に就任され,教育研究に当たられました。萩原先生は,特に洛北校の工学系のカリキュラムの刷新に取り組まれました。京都大学工学部情報工学科のカリキュラムを参考とされ,本学院の従来の3年制の情報工学科のカリキュラムを改良してくださいました。そして,1996年4月から,初めての4年制の情報工学科と合わせ,3年制のコンピュータ工学科を開設する運びとなったのです。当時としてはまだ,他の多くの工学系大学でも取り入れられていなかった,ネットワークや言語理論,オンラインシステムやマルチメディア論,さらにはパターン認識や認知科学,人工知能やエキスパートシステムなどの専門科目を取り入れた新しいカリキュラムによって,学生たちに,最先端の知識・技術をより豊富に提供することができるようになりました。1996年度の学生便覧の情報工学研究所のコラムには,「情報工学研究所の監修のもと,専修学校で類を見ない4年制の情報工学科を開設し,カリキュラムや教員の面において,既存の4年制大学における情報関係学科より充実した学科とし,優秀な学生を輩出できるものと確信している」とのメッセージが掲載されています。本学院洛北校情報工学科は,1996年当時,親しみをこめて「萩原(はぎわら)学校」と呼ばれていました。やがて2005年には,文部科学省告示にて,本学科は高度専門士の称号付与学科として認められることとなったのです。

また,萩原先生は,本学院情報科学研究所の上野季夫先生ご退任の後,再編により情報学研究所が設立された際,初代所長をお務めになりました。

さて,私どもKCGグループに大きな転機が訪れたのが2003年でした。4月に専門職大学院制度が施行され,私どもはIT分野における日本最初で唯一の専門職大学院「京都情報大学院大学」の創立に向け準備を開始しました。2003年11月1日には,国立京都国際会館で開催した京都コンピュータ学院創立40周年記念式典の席上,開学を宣言いたしました。翌2004年1月には文部科学省から設置認可を得て,4月に京都情報大学院大学を開学するに至りました。萩原先生は,大学院設置認可申請チームの先頭に立たれ,かつての教え子や後輩といった優秀な教員をご紹介くださいました。そして初代学長として,これまで日本にはなかったスタイルの大学院における教育,研究活動の推進に尽力されました。京都情報大学院大学は札幌,東京にサテライトを開設したほか,定員を当時の2倍とするなど発展を続け,多くの情報処理分野のリーダーを国内外に輩出しております。2012年10月発刊の週刊東洋経済では「成長度日本一」に挙げられるなど,外部の評価も高く,今後ますます社会貢献への期待が高まっていくと思われます。この基礎を打ち立ててくださいましたのが,萩原先生でした。

萩原先生はたいへん実直で温厚なお人柄で,人望も厚く,時代の先を読む見識の深さに周囲の研究者たちは敬服していました。また,漢詩も好まれ,京都大学に在籍されていたころから,勉強を始められたと伺っております。京都コンピュータ学院に着任されたときには,日中友好漢詩協会に所属されており,京都駅前校では一般教育科目のひとつである,漢詩の講義をされました。中国の古代からの漢詩について,その時代背景を踏まえて鑑賞しながら丁寧に解説してくださいました。また,先生は,愚石という雅号をお持ちで,KCGグループが発行している校友会機関誌「アキューム」の,1993年発刊の第5号に最初にご自作の漢詩を二首寄稿されて以来,ほぼ毎年新しい漢詩を投稿されていました。漢詩,特に近体詩においては作詩の規則がしっかりしています。かつて先生は,「それはちょうどコンピュータプログラミングと似たところがあります。規則に従って言葉を並べていくと,作品がおのずと出来上がるのです」とおっしゃっていました。コンピュータの言語理論は,漢詩の作詩においても共通の理論になり得るとの趣旨でおっしゃったのではないでしょうか。

先生が今から7年前,2007年発刊の「アキューム」第16号に,最後に投稿された作品を紹介させていただきます。

庭梅開花
庭前梅老樹、 庭前の梅の老樹、
日暖数花開。 日暖く数花開く。
幽艶横斜影、 幽艶なり横斜の影、
逍遥気快哉。 逍遥すれば気快哉。
愚石

先生は,日中漢詩協会の副理事長もお務めになりました。妙心寺で開かれる毎月の漢詩の勉強会に出席され,ご自身の漢詩を披露されるとともに,会員の方々の作品の添削にも,たいへん熱心に取り組まれていました。先生は常々,自分で勝手に漢字を解釈しないで,必ず漢和辞典を参照しなさいと指導されていました。

2009年4月には,瑞宝中綬章を受章され,本学関係者一同,喜んでいたところでございます。引き続き,先生の大きなお力をお貸しいただこうと思っておりましたが,萩原(はぎはら)先生にもう二度とお会いすることができないとは,いまだに信じられない思いでいっぱいであります。たいへん残念で,言葉も見つかりません。

萩原先生にご教授いただいたことは,本学の学生,修了生,教職員,関係者皆にとって永遠の誇りであります。未来永劫,そのご功績を伝えていかなければならないと決意しております。お教えを今後に生かしていくことが,先生のご恩に報いることになると考えております。

萩原先生,ありがとうございました。そして,本当にお疲れさまでございました。どうか,どうか,安らかにお眠りください。心よりご冥福をお祈り申しあげます。

京都コンピュータ学院・京都情報大学院大学 統括理事長
長谷川 亘

電子計算機と共に歩まれた2の6乗年

在りし日の萩原宏先生を追悼するにあたり,京都大学,とくに数理工学科に教授として在職されていた頃の先生について,私個人の印象を少しお話しさせていただきます。

本学初代学長を務められた萩原先生のあと,2代目学長の長谷川利治先生を挟んで,私は3代目の学長になります。萩原先生とは,それ以前にもご縁がありまして,先生が京都大学数理工学科教授から情報工学科の教授に移られたあと,残された数理工学科の講座をやはり長谷川利治先生が引き継がれたのですが,私はその後,長谷川研究室を引き継ぐことになりました。2度このようなことがありましたので,私は萩原先生の孫弟子と言ってもよいのではないかと勝手に自負しています。

萩原先生のご経歴については先ほど紹介がありましたが,京都大学関係をもう一度述べますと,1957年に工学部電子工学科に着任された後,数理工学科,大型計算機センター,および情報工学科の設立にご尽力され,ご自身も数理工学科および情報工学科の教授を歴任されました。京都大学を定年退官されたのは1990年です。

萩原先生の講義に最初に接したのは,私が電気工学科の学生だった時でした。たしか「電子回路」という科目だったと思います。この頃,というのは1960年代の初めですが,コンピュータを電子計算機と呼んでいた時代です。しかし,電子計算機という名前のついた講義科目はまだなかったと記憶しています。そのような時期に,すでに電子計算機の研究と開発を進めておられた訳ですから,先生の先見の明には脱帽する以外ありません。先生の講義は,几帳面で,要点をきちんと整理して述べておられたという印象があります。ただ,その内容を学生に噛み砕いて説明するというより,あとは自分で勉強しなさいと言った感じでした。もっとも,当時の京大の先生方の講義は,ほとんどこのようなスタイルだったと思います。先生は,饒舌というより,どちらかといえば寡黙で,何事にも丁寧な方でしたので,当時学生だった私は,なにか近寄りがたいという印象を持っていました。

その後,萩原先生とお近づきになれたのは,1969年に私が数理工学科の助手に採用されてからです。学科の仕事などで,先生と時々お話しする機会がありました。先ほど話題になっていたTOSBAC3400の先行モデルであるKTパイロットですが,その頃にはほぼ完成していて,6号館という建物の2階に置いてありました。ある時,それを見学し,萩原先生に直々に説明していただくという機会がありました。マイクロプログラム方式と非同期回路を用いた新しい仕組みの高速計算機で,心臓部分に大きなプラグボードがあって,その配線を変えることによっていろいろな命令を実現できるという説明を受けました。それ以上の詳しい話は,当時の自分にはよく分かりませんでしたが,ただ,この時以来,萩原先生が大変親切で親しみ易い方であることがわかり,学生時代の印象に比べると,かなり近づくことができたと思ったものです。 

KTパイロット を完成させるために,1960年代初頭から,研究室の方々が総力を挙げておられたことはよく聞いていました。具体的には,アッセンブリ言語の実装,FORTRAN, ALGOL などの高級言語のコンパイラ作成の作業であったことを最近,萩原研出身の先生方に教えてもらいました。ハードウエアとして高速であるだけでなく,これら当時の最先端のソフトウエアを装備していたことが,多分,TOSBAC3400 が商用として成功した理由の一つではないかと考えています。

先ほど,1969年と申し上げましたが,この時期,大学は大学紛争という大きな試練に遭っていました。急進的な学生運動を進めていたのは,全共闘と呼ばれていたグループでしたが,全共闘はその名前の通り,いくつかのセクトが集まってできていて,中には相当過激な主張をするセクトもありました。数理工学科の学生の中にこれらのセクトに所属する者が数人いたのですが,その結果,数理工学科全体が大学紛争の荒波に激しく揉まれました。萩原先生の講座にもそのような学生がいたと聞いていますが,そのせいでしょうか,先生の教授室が学生たちに占拠されるという事態が数か月続きました。教授室の窓から,セクトの大きな旗が掲げられていた光景を覚えています。この間,先生は大変なご苦労をされたに違いありません。

萩原先生は,たくさんの論文と著書を書かれましたが,代表的な御著書を挙げるとすれば,朝倉書店から出版された「電子計算機通論1,2,3」だと思います。この3冊が出版されたのが1969~1971年ですから,先生は先ほど述べた大学紛争のまさにそのさ中に執筆に没頭されていたわけです。当時コンピュータに関する書籍は,英語で書かれたもの以外あまりありませんでしたから,日本語で計算機の仕組みを詳述したこの書籍によって,先生は電子計算機分野の第一人者として認められるようになられたのではないでしょうか。先生はその後,情報処理学会の会長を務められるなど,学会の重鎮として活躍された訳ですが,その出発点はここにあったと私なりに想像しています。 

萩原研究室ご出身の先生方と話してみると,先生の人間味あふれる側面が次第に分かってきました。自動車を運転されることが大変お好きで,愛車のパブリカをご自分で運転して,学生と共に箱根の学会に出席し,そのあと伊豆まで回られたとか,研究室のコンパでは,いつも最後までお酒を楽しまれるという側面もお持ちだったようです。先生がお弟子さんたちの面倒を親身になって見てこられたことは,現在KCGIに,かなりの人数の研究室の出身者が勤務しておられることからもわかると思います。

京都大学を定年退官されるとき,記念講演として,京都大学での三十数年を振り返ってお話しをされたのですが,そのタイトルが,「京都大学での25年」だったと思います。正確には少し違っていたかも分かりませんが,三十数年と言わずに25年と2進数風に言われたところが,さすが電子計算機の萩原先生だと,私の記憶に強く残っています。先生が,電子計算機の世界に入られてから,お亡くなりになるまで六十数年ですから,先生の表現によれば 26年でしょうか。この間,先生は電子計算機と共に歩まれ,その進歩に大きな貢献をなさいました。このことはいつまでも人々の記憶に残ることでしょう。今はただ安らかにお眠りになられるよう,心からご冥福をお祈り申し上げたいと存じます。

2014年2月8日 京都情報大学院大学 学長
茨木 俊秀